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ヴォネガットの『青ひげ』、感動しました。
その勢いでblogを書く。(長いよ・・・、たぶん今までで一番長くなった)
題名の由来になっているのはペローの『青ひげ』だそうで。
もともとヴォネガットは好きで、ほとんどの作品を読んでしまっているのだが、この作品は未読だった。
好きな作家全てに関していえることなのだけれども、
まだ読んでいない本が残っているということはとても幸せな状態だろう。
それゆえに、ヴォネガット作品で読み残している本があと1、2つほどしかない今の状態は、
残りわずかな大きな期待と同時に、やはり非常にさびしいものがある。



青ひげ (ハヤカワ文庫SF)青ひげ (ハヤカワ文庫SF)
(2006/02/11)
カート ヴォネガット (著)
Kart Vonnegut (原著)
浅倉 久志 (翻訳)

商品詳細を見る


あらすじ
=========================================================================
わたしはラボー・カラベキアン。亡き妻の大邸宅に孤独に暮らす老人だ。
かつては抽象表現派の画壇で活躍したこともあったが、
才能に限界を感じて今では抽象画のコレクターに甘んじている。
そんなある日、若くエネルギッシュな女性が現われ、わたしの人生も大きく変わることになった。
彼女は、わたしが誰一人入らせない納屋にいったいどんな秘密があるのか、興味を示しだしたのだ。
=========================================================================

本作は、ヴォネガットお得意の構成である「回想録」という形をとっており、
時間軸も現在と過去をいったりきたりし、現在の話が進行すると同時に過去のことも語られます。
つまり、結果的には主人公の人生が大筋として語られているわけですが、
どうしてこの作家は毎回毎回、こんなに独創性をもった小説が書けるのか。

大邸宅に住む主人公は秘密の納屋を持ち、その中身は多くの人たちの好奇の的となる。
しかし主人公は中身を明かす事を頑なに拒否し、読者にさえも知らされぬままに物語は進む。
いつものヴォネガット調で、複雑で奇妙で残酷で不可解、それでいて「軽妙」に話は進む。
そして、最後の最後にそのとっておきの秘密が明かされることとなるのだが、
この場面には特に感動した!
エンターテイメントという言葉は小説に対しても適用できうるんだという再認識。
小説っていうのは、文章を読んで、各々の読者が場面を頭に思い描きます。
『青ひげ』のラストシーンは、まるでその場に立っているかのようにイメージが広がる!
風景、音、空気、人物の心境や表情、その他もろもろのあらゆる要素が、
張り詰めた空間と緊張した時間とともに揃っている。
この読書は、衝撃体験といっても過言ではないんじゃないか。
もちろん最後だけでなく、至るところに素晴らしい所がある。
私の拙い言葉ではうまく伝えきれないし長くなるので割愛します。
実際に読んだほうが早い!全体を通して感じるものもあると断言しよう!


話は続きます。
折角なので、私のヴォネガットに対する個人的な考えを一気に書く。
ヴォネガットの作品といえば、凄惨ながらもユーモアに溢れ、皮肉のなかにある確固とした優しさ。
というものが全作品を通して発揮されている。



 「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの
  『カラマーゾフの兄弟』の中にある。だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」
                     (スローターハウス5)


二十世紀以降の作家がかかえる命題を代弁しているともとれる言葉であるが、
つまり、人間についての大方はドストエフスキーが書きつくしているんじゃないか、と。
しかし、この世には色んな新しいものも増えているし、書かれていないもいっぱいある。
(少なくともヴォネガットの中ではそうだった)
また、ドストエフスキーにもやはりユーモアはあるが、
ヴォネガットが欲したのはもっと底抜けた笑い、あっけらかんとした笑いだった。
彼の原体験ともなっているのは、第二次大戦でのドレスデン大空襲。
ドイツ軍の捕虜であった彼は、自国アメリカ軍の無差別爆撃を経験することになる。
一瞬にして出来上がる人間の死体の数々と壊滅した芸術。
そこは地獄だったのだろう。私の想像以上に混沌としていたはずだ。
母親の自殺や戦争など、深刻すぎる場面を経験した上で、彼は「軽妙」に語る。
その「軽妙」はエピクロスや一遍上人のように、死の絶望を突破したあげくのものだ。
だから彼のユーモアの裏には悲哀が見える。
(民間人を含めた無差別爆撃というものが、彼の中では大きなイメージとして存在していて、
 やはり広島・長崎についても何度か言及しています)

 「人生は危険だよ、それは知ってる。
  それに、苦しみもいっぱいある。
  だからといってまじめなもんだとは限らんよ。」
                     (チャンピオン達の朝食)




  「単時点的な意味において、さようなら」
                       (タイタンの妖女)


無神論者であるヴォネガットだが、
死をどう捉えるかという意味において、この台詞は宗教的な側面をも持っている。
『タイタンの妖女』の老紳士ラムフォードにおいては、今も未来も過去も同時に存在する。
もし今の彼が死んでしまっても、別の時間の彼は生きている。あらゆる時間を行き来する。
半自伝的な作品『スローターハウス5』の主人公ビリー・ピルグリムもまた、
3次元にとらわれない時間の中に生きていた。死もひとつの通過点でしか無いらしい。
また、ヴォネガットの小説自体も、自由な時間軸にて構成されているものが多いのも特筆すべき。

人生は抗いようの無い力に決定され、すべての物事は受け入れていくしかない。
ヴォネガットの作品からは、一貫して運命論というべきものがみてとれるのだが、
そこには、開きなおりや受容していく者の敗北感はいっさい無い。
今を明るく楽しく生きていくのが正解だと提示するのがヴォネガットであって、
それはニーチェの永劫回帰にも通じる強力な生の肯定がある。

 「こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。この星は夏は暑くて、冬は寒い。
  この星はまんまるくて、濡れていて、人でいっぱいだ。
  なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは長く見積もっても、せいぜい百年ぐらいさ。
  ただ僕の知っている規則が一つだけあるんだ。
  いいかい、なんてったって、親切でなきゃいけないよ」
                       (ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを)

 「愛は負けても、親切は勝つ」
                     (ジェイルバード)





v1.jpg

1997年の『タイムクエイク』以降、長編は書かないと宣言してた(体力的なことからか)
ヴォネガットだが、2006年、83歳でオハイオ州の大学にて講演を行う。

  「ちょっと言いたいのだが・・・・・・、ジョージ・W・ブッシュは梅毒大統領です」

と、はじまり、
  「私は淡水人で、海で泳ぐと、まるでチキンスープの中に居るように感じる。
   香り付きの水で泳ぎたいなんて誰が思う?」
  「互いに親切であれ。礼儀正しくあれ。喜ばしい瞬間は声に出して感謝しよう。
   “これが素敵でなくて、他に何がある?”」


まだまだヴォネガット健在せりと思わせる発言を連発していたのだが、
去年の4月に彼は死んだ。
ショックだった。

 「わたしはときおり芸術はなんの役に立つのかと疑いをもつことがあります。
  わたしに思いつけるいちばんましな答えは、みずから「坑内カナリア理論」と名づけたものです。
  この理論にしたがえば、芸術家が社会にとって有用なのは、彼らが極めて敏感であるためです。
  彼らは敏感すぎるほど敏感である。
  そのために、もっと強壮なタイプの人間がまだなんの危機にも気づかない前から、
  彼らは有毒ガスの発生した炭鉱の中のカナリアのように、目をまわしてぶっ倒れるのです。」
                       (プレイヤーピアノ あとがき)


ヴォネガットは、味のある自筆のイラストを作品内でよく使用している。
公式サイトのTOPページにも様々なイラストが使われていたのだが、
彼が死んだ後、TOPページの絵はどうなったか?
その目で確かめてください。まったく、死んでまでヴォネガットらしい。

 Kurt Vonnegut公式サイト




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読書 | コメント:11 | トラックバック:1
読書管理 その1
2008-02-16 Sat 23:41
酒やタバコを簡単にやめることができないように、本にもある種の中毒性があって、
断続的な日々の読書をやめることも容易ではない。
一から多へ派生する読書の結果、部屋の中の書物はネズミのように増え続ける。
前々から考えていたのだが、読書日記をつけようと思う。
理由は簡単で、管理の必要性を感じた事と、おおきな気まぐれ。

今回、部屋の本を整理していていくつか、

1、傾向に統一性が無い。
 濫読の弊害はたしかにあるのだが、じゃあ濫読をやめられるかと言うとそうでもない。
 さすがに同一作家の小説を同時期には並行して読まない以上、自然と統一性は無くなる。
 飽き性ということも原因であろうが、良く取れば「貪欲」ともいえる。
 
2、文庫が多い。
 文庫は持ち運びしやすいし、スペースも取らないし、なにより値段が安い。
 まさしく「枕頭の書」というように、枕の横にも5、6冊の文庫本を無造作に置いている。
 寝る前に本を手に取ることのなんたる幸せか、というのが実感なのだけれども、
 そんな事で感動するのはやはり世の中一般では「暗い」となるし、まぁ、否定はできない。
 購入する本のほとんどが文庫なのもこれ、寝ながら読みやすいからという理由も大きい。

3、海外作品の割合。
 意識的には「たまには海外の小説でも読もうか」という程度であったのだが、
 改めて見ると、国外の作品を予想以上に読んでいる。約3分の1は国外の作家だ。
 


はじめに、ここ2、3ヶ月で買ったものを羅列する。(順不同)
(それ以前のものは全部押入れに入れています)

「小説のたくらみ、知の楽しみ」 大江健三郎
「初版金枝篇(上)」 J.G.フレイザー
「異端の肖像」 澁澤龍彦
「意味という病」 柄谷行人
「スロー・ラーナー」 トマス・ピンチョン
「幽霊たち」 ポール・オースター
「ブッキッシュな世界像」 池澤夏樹
「テースト・オブ・苦虫」 町田康
「権現の踊り子」 町田康
「ペンギン村に陽は落ちて」 高橋源一郎
「反=日本語論」 蓮實重彦
「成城だより(下)」 大岡昇平
「そうだったのか現代思想」 小坂修平
「錯乱のニューヨーク」 レム・コールハース
「目白雑録」 金井美恵子
「むずかしい愛」 カルヴィーノ
「悪の華」 ボードレール
「不思議図書館」 寺山修司
「私は好奇心の強いゴッドファーザー」 原田宗典
「介護入門」 モブ・ノリオ
「脳と仮想」 茂木健一郎
「ひきこもれ」 吉本隆明
「やがてヒトに与えられた時が満ちて……」 池澤夏樹
「転々」 藤田宜永
「いまなぜ青山二郎なのか」 白州正子
「ゴシップ的日本語論」 丸谷才一
「僕が本当に若かった頃」 大江健三郎
「千年紀のベスト100作品を選ぶ」 丸谷才一・三浦雅士・鹿島茂
「目まいのする散歩」 武田泰淳
「バゴンボの嗅ぎタバコ入れ」 カート・ヴォネガット
「タイムクエイク」 カート・ヴォネガット
「青ひげ」 カート・ヴォネガット
「江分利満氏の優雅なサヨナラ」 山口瞳
「エドガー・アラン・ポー短編集」 エドガー・アラン・ポー
「小春日和」 金井美恵子
「道化師の恋」 金井美恵子
「読書術」 加藤周一
「サーチエンジン・システムクラッシュ」 宮沢章夫
「レトリック感覚」 佐藤信夫
「頭の中がカユいんだ」 中島らも
「新編 悪魔の辞典」 ビアス
「O・ヘンリ短編集」 O・ヘンリ
「父の酒」 安岡章太郎
「ピクニック、その他の短編」 金井美恵子
「文章教室」 金井美恵子
「異端教祖株式会社」 アポリネール 
「輝く都市」 ル・コルビュジエ
「悲しき熱帯?」 レヴィ=ストロース
「悲しき熱帯?」 レヴィ=ストロース
「三冠小説集」 笙野頼子
「もののけづくし」 別役実
「一千一秒物語」 稲垣足穂
「ちくま日本文学006 寺山修司」 寺山修司
「私の「戦争論」」 吉本隆明
「旅路の果て」 ジョン・バース



次に、読了しているものとそうでないものを把握し、出来るだけ作家及びジャンル別にソートする。
そして、簡単な感想を書く。自らの読書を系統立てることにより、読むべき本が見えてくる。
これぞ読書の展望というものじゃん!!
と思ったのだが、とてつもなくメンドくなってきた。
あぁ、面倒!メンドーサ!(←アルゼンチンの都市





読書 | コメント:5 | トラックバック:0
敷衍
2007-12-09 Sun 22:13
仕事上で上司などに報告書を提出する事が多々あるわけだけれども
どうしても仕事に活力が持てないし、内容もまとまっていない。
しかし提出期限が迫っているという時に、ついついやってしまう行動というのが、
小さな事を長々細々と書き、各所にレトリックを散りばめ、
むしろ真実を伝える為の手段だといわんばかりに、誇張法を使う。
つまりその真意は、せめて提出書類のサイズだけでも大きくして、
空振りながらも「やる気」だけはあるな、と思わせる作戦です。
その、ビジネスとしてあるまじき様相を呈した報告書は、
上司との信頼関係があってこそ成立するものであったりする。

相手の反応の大抵は、
「意味わからん、難解な事を簡単に書くことこそが……」うんぬんうんぬん。

結果、再提出までの時間をいただき、
そこからが本気で書類を作成し、まるでインド人がナンをこねるように、
練りに練って内容を推敲し、最終的にはわかりやすく書くようにしている。

それで大丈夫なのか?と問われれば大丈夫だったりするのが不思議であるが、
その当の上司は上司で仕事中に
「人間はなぜ愛を欲するのか?」
「地球はなぜ丸いのか?」
などの質問をクソ忙しいときに唐突に投げかけてき、そこから、
「なにごとにも原因・理由はあるんです!」
と導かせようとする、
うざ…、いや、有り難い人なのであったりするので大丈夫なのである。

で先日、その上司に待望の第一子が生誕した。(あいにく馬小屋では無く、病院で。)
ぜひ、拝顔したいと申し伝えたところ、
「ジェントルマンとして振舞うのならば」
という条件を提示された。意味がわからんし。
俺ほどの紳士はいないし。




雑記 | コメント:6 | トラックバック:0
普通の日々
2007-10-08 Mon 20:17
iPod touch買いました。
職場の人間との話に上がった勢いで、急遽アップルストア銀座店に出向いたのだけど、
↓がその日の様子です。
http://arena.nikkeibp.co.jp/article/news/20071005/1003256/
偶然にも国内での店頭発売日でした。
我々はそんな事はつゆ知らず、行列に驚きつつも買えてしまった。
私が行った時には、行列もだいぶ短くなっており15分位で購入完了。

触ってみた感想は、「技術の進化はすげぇな~」です。
でもまぁ、正直「何だかなぁ」と思うのである。
くだらねぇ世の中。
いや、touchは素晴らしいとは思うけれども、
こんなん買ってどうすんだ。
もっと他に買うものあるんじゃないかっつって・・・
考えすぎだよ俺は。
ボードレールに「貧者の玩具」という散文詩がありますが、
そんなこんなであんなです。適当。



雑記 | コメント:4 | トラックバック:0
転がったまま考えて
2007-10-01 Mon 20:34
悲劇は喜劇になるというが、深刻すぎる悲劇は喜劇にはならない。
そして、私の階段の踏み外し方は、目撃者に対し死を予感させるには充分すぎたらしい。
死もまた唯一な悲劇である。
もちろん私自身、その一瞬は死んだと思ったし、死を覚悟した。
そう、私は昨日、デニーズのコンクリートの階段を勢いよく踏み外した。
腰や背中そして後頭部を豪快に強打した。なんつーおっちょこちょいだよ。

 「頭打ったよな今」
 「打ったな」
 「大丈夫?」
 「とりあえず座った方がいい」
 「病院行こう」等々、
周りは神妙な顔つきで心配をしてくれている。

その呼びかけには即答しかねた。
その声はまるで異世界の声に聞こえたし、
体のあちこちを自らチェックするのに忙しかった。
自分に問う。
腰は大丈夫か?手は?頭は?アタマ、流血してないか?いま呼吸できなくね?腰いてぇ。
素晴らしい生命の本能。
その時間、5秒ほどなのか3分なのかも判然としないが
ようやく「だ、だ、だ、大丈夫」と言えた。
(しかし、周囲の返答は一様にして「大丈夫じゃないと思うよ・・・・・・」であった)
目撃者にとっては笑い事には成り得ないレベルのショック映像であったとのこと。

周囲を安心させる為、そして自分自身を落ち着ける為に、私は元気に一言付けたす。
「あぁ、地獄が見えた!!」


最近になって、身辺を彷徨く死の気配はますますその量を増している。
死とは、肉体的か精神的なものか。
おそらくどちらでもあるし、どちらでもない。そこへ至る過程もそれぞれだろう。
なんて事を考えるのも、考えすぎでありますが、
昨日経験した人生でも最も死に近づいた瞬間の1つは、極めて肉体的なものだ。
だがここで、フロイトが発見、あるいは発明した「無意識」という言葉が事態を複雑にする。
傘をドコソコの場所に忘れたのは、再びそこへ戻りたい心理が働いている為だというアレだが、
となると私がデニーズの階段(コンクリート!)で踏み外したのはなーーんでか?
まぁ十中八九、雨で足場が悪かったせいであるが、フロイト氏はそれだけで済ますまい。

先ほどバッグに入れていたiPod nano(29,800円)が割れているのに気づいた。
ひび割れた液晶画面は、液が滲み、もはや縦筋の線を表示するだけだが、
買ってから半年も経っていないはずのiPodの死に、不思議なことに落胆はまったく無い。
いま私が生きていることへの悦びを感じたのである。
下手すりゃiPodと同じ運命を辿っていたよ。いや、マジで。



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